銀座スイスの創業と西洋料理
料理人を志して
創業者の岡田進之助(明治28年生)は、四谷で誕生しました。幼少の頃より宝亭にて子飼いとして教養され、独学でフランス語を学び、全てのメニューをフランス語で書き、パーティ料理を得意としていました。
『天皇の料理番』として著名な秋山徳蔵氏・宮内省大膳職主厨司長(総料理長の事、現在では宮内庁管理部大膳課主厨長をさす)とともに、日本の西洋料理の礎を創った東京・麹町の『宝亭』(空襲により焼失)と首相官邸・国会記者クラブにて総料理長(退官後、ニチレイに迎えられた)をつとめ、歴代首相の東條英機から吉田茂まで料理を提供しました。
混沌とした終戦後、外地より帰還した息子達を中心に戦前・戦中に高価であった西洋料理を「より多くの方に食してもらおう」という理念のもと昭和22年に『グリルスイス』を銀座7丁目で誕生させました。
銀座スイス開店
終戦直後のグリルスイスの開店は、進之助の当時の料理界での影響力の大きさがあっての事でした。
次男の岡田義人は父の影響を受け帝国ホテルで修業をしました。同期には後の専務取締役総料理長となる村上信夫氏がおり、実家も近いことから生涯の友となり料理界を牽引していきました。父親や帝国ホテルで学んだ技術を開店したスイスにて存分に発揮いたしました。
当時、当店のカレーは帝国ホテルと同じに『カルカッタ風カレー』と言いました。ステーキの『シャリアピンステーキ』の呼び名は現在でも多くの店で使われています。その仕事ぶりが評判を呼び人気店となり、昭和30年には越後湯沢のスキー場に出店しました。当時としてはめずらしさもあり、盛況となり競技用のポールの旗すべてに当店の赤いロゴ(湯沢にて考案)を付けるほどでした。
創業者の進之助や次男の義人は若くして他界しますが、味と技術は末娘の伴侶・庄子敏松に受け継がれ、味やブランドロゴとともに大切に守っています。
千葉茂氏の『歴史は創るもの、伝統は守るもの』のお言葉を信念に、銀座の地にて明治・大正・昭和・平成と時代は変わっても、脈々と日本の洋食の伝統と歴史ある味を忠実に守り続けています。
カルカッタ風カレーと銀座スイス
銀座スイスのカレーソース
一緒に煮込む肉は、ミンチを使用していますので自然にとろけます。じっくり煮込んだカレーソースは当店の自慢メニュー『カツカレー』の揚げたてカツレツの味を損なうことなく、独特の味わいが評判です。
独特な味わいの当店のカレーは、野菜や肉自体の形が見えませんが、沢山の野菜(玉ねぎ・人参・りんご・生姜等)を使用しているため、野菜嫌いのお子様にピッタリで、安心してお召し上がりいただけます。
千葉茂氏のひと言で生まれた『カツレツカレー』
昭和23年(1948年)当時、巨人軍のユニフォームは『銀座テーラー』にて作っていました。
その店主からお店に訪れた千葉さんにに紹介されたのが当店『銀座スイス』でした。
『銀座テーラー』から、多摩川の練習の帰りや試合前・試合後または、プライベートなどでとよくお越しいただきました。
とある巨人・阪神戦の前、お腹がすいて沢山食べたいし、早くも食べたい、ガツンといっき食べたく思いついたのが、『カレーライスにカツレツを乗っけてくれ!』だったのです。言われた当店はビックリです!
今ではトッピングは普通ですが、当時、カレーライスに何かを乗せる発想はありませんでした。ましてカツレツを乗せるなんて、想像をはるかに絶していました。それをいとも簡単にペロリとたいらげ、あるときは二皿も食べられることもありました。
千葉茂氏はカレーライスとカツレツは大好物、そしてカツレツは勝負に勝つ(カツ)と言う、験(げん)を担ぎ、試合前によく食べられていました。
千葉茂氏がおいしそうに食べる姿と、見た目のボリューム感や美しさで、さっそくメニューに加え当店の人気メニューなったことはもちろん、あっと言う間に全国的に広がりました。銀座で生まれたもの・発祥のものでは、木村屋の『あんぱん』や、寿司屋 久兵衛の『軍艦巻き』などなど数多くありますが、銀座スイスの『カツカレー』もその中のひとつです。
創業当時のメニュー
なお,当時は,カツカレーは正式メニューではなく特別メニューでした。
参考までに,昭和24年の銀行員の初任給が3000円の時代です!まだ『カツレツ・カレー』が特別メニューで180円でした。